『stars, wind, and the moon』


「ねえ、レンさん……。あたしね、今でも時々、あのときのことを思い出すんだ……」
 教室の窓際の席を九十度回転させて腰掛けている舞琴は、視線を窓の外に向け、呟くように廉太郎に話しかけた。
 その後ろの席に座り、彼女と向かい合っている廉太郎は、つられるように、その視線を追う。
 一面の茜空と、そして真っ赤に燃える校庭の木々の紅葉が、この世の全てを紅く染めてしまったかのようだった。
 遠い山の木々も、紅く色づいている。命の最後の一滴までを、その葉脈の隅々まで這わせているかのように。あたかもそれは、死の淵を間際にした、最後の流血であるかに見える……今の二人にとっては。
(あの木は……楓の木だろうか)
 廉太郎は、ふと思い出す。
 夏の日、巻き込まれた一つの出来事を。


 結局、あれはなんだったのだろう。自分達は、一体何をしたのだろう。
「あたしたちのしたことって、結局なんだったのかな」
 舞琴は視線を外に向けたまま、続けた。廉太郎は、自分の心を読まれたのかと思い、少しだけ驚いた。
 普段の彼女からは想像出来ない、憂いを含んだ眼を伏せる。睫毛が普段は溌剌とした彼女の頬に、すっと影を落とした。
「舞琴……」
 廉太郎には、彼女に明確な答えを与えることは出来ない。自分でさえ、それを見つけていない。
 迷った末に彼女の名を呼んで、そして「うん」と小さく頷いただけだった。
「あたしさ、多分無意識にだけど、眞子ちゃんの側に立って、あの事件を見てたんだ。だけど、楓子さんだって、本当は優しい人だったのかもしれない……」
 舞琴の言いたいことは判る。
「好きで、あんな風に家族を殺したんじゃないんだって、思いたいよ」
「……実際、彼女が殺害したのは、旦那さんと、使用人夫婦、そして……自分だけだよ」
 廉太郎は、そんな風にしか返せない自分の冷たさに、嫌気を感じた。
「…………、うん、そうだね」
 しかし、舞琴は気にする風も無く、苦笑した。大げさに言い過ぎた自分自身を恥じているのか、それとも、いつでも冷静であろうとする廉太郎に対して呆れたのか。おそらく、その両方だろう。
「彼女にとって大事な人は、みんな眞子が殺してしまったものね」
 ふいに、高いところから声がかかる。
「おリョウさん、いつからそこに?」
「たった今よ。なあに、私、お邪魔だったかしら?」
 廉太郎の笑みを嫌味と取ったのか、涼湖は少し首を傾げてコミカルに答えた。綺麗に切りそろえられたストレートの髪が、さらりと揺れる。
「いや、全く」
 廉太郎は笑みを深くした。正直、あんな舞琴を見ているのは歯痒かった。そして、何も出来ない自分がもっと歯痒い。
「リョウ、生徒会、もう終わったの?」
 舞琴は、今までの憂い顔とは打って変わって、いつもの元気な口調になっていた。親友の力は偉大だな、と廉太郎は息をついた。
「まあね。待たせて悪かったと思って急いで帰ってきたのに、一体何を話しているのやら」
 呆れた顔をして、涼湖は肩をすくめた。
「ねえ、リョウ。リョウは……答え、出た?」
 舞琴は涼湖に問う。まだ話を続ける気らしい。
 涼湖は大きくため息をつくそぶりをして、「しかたないわね」というように隣りのイスに腰を下ろした。
「そんなもの、出ないわよ。どうして出せるっていうの」
「……うん、そうだけど」
 さっぱりと言い切った涼湖の言葉に、舞琴は小さく頷く。それでも、納得は出来ていないことは、彼女の曇った表情から想像できた。
 涼湖は、少し間を空けて、何かを逡巡するように目を伏せる。
 そして、決心したように視線を上げ、舞琴を見た。
「私たちはね、結局過去の出来事の、ほんの少ししか垣間見ていないのよ。あの家族に一体何が起こったのか。その部分の、ほんの断片だけ。どうして事件が生まれたかなんて……判るわけないの」
「……だけど、楓子さんだって、家族に愛されていなかったわけじゃないのに」
「確かにね、愛されていたのだと思うわ。彼女を心配し、プレゼントをし、伴侶を与え、大切に扱ってきた。新しい家族に相応しい、新しい名前とともにね」
 涼湖は、視線を一度も揺るがせない。ここが、彼女の強さだと廉太郎は感じる。
 彼女は、きっと、一切の迷いを自分の胸のうちにだけ抱え込み、答えを出すまでは微塵も周囲に悟らせないようにしているのだ。そして、明確な答えが出てからは、けして揺るがない。舞琴とはそこが本質的に違う。
 舞琴は、揺れ続ける。そして、流動する水のようにしなやかに、変化し続けるのだ。あらゆる事象や、迷いや、他者の思いを全て溶かし合わせ、その身に内包させていく。涼湖が鏡のように直線的に光を放つとするなら、舞琴は瞬く小さな星の光の集合体のようなものだろう。赤や白や青い星、巨大な星、消えてしまいそうな小さな星、それら全てが、彼女の空。
 ちかり、ちかりと瞬いては、不安定に揺れる。
「愛されていたからこそ、許せないこともあるんじゃないのかしら」
「……どういうこと?」
 また、ちろりと光が弱く揺らめく。
 そのときの舞琴の表情は、どこか違う世界を視るように深い色をする。深い深い森の奥を彷徨うような彼女を見るのは、好きかも知れないと、ちらと考えて、案外自分はスケベだなと廉太郎は自嘲した。
「例えば、舞琴に本気で好きになった人がいるとして……」
「うわ。ちょっと、そんなの無いって!」
 舞琴は、さあっと頬に朱を差して抗議した。
「なにムキになってんのよ。例えばよ、たとえば」
「ううう」
「相手も、自分を愛してくれてると思ってた。なのに、自分よりも愛してる人が他にいると知ったら、嫉妬しない?」
「うー……そりゃ、恋愛ならそうかもしれないけど」
「愛情はみんな同じよ。家族愛、親への愛、子への愛……どれもこじれてしまう。愛してるがゆえに」
「……よく判んないよ」
 困ったように首をひねる舞琴を見て、涼湖は小さくため息をつく。
「考えてもみて。楓子は、家族の愛に飢えていた。孤児院育ちなのからみても、本当の親の愛は知らないで育ってる。そこへ、夢のような話が来たわ。資産家の養女に迎えられる。マメ太じゃないけど、シンデレラよ」
「そうだよね」
「だけど、その条件には『改名』が含まれてる。慣れ親しんだ名前を変更しなくちゃならない。なぜ? なんのために? ひょっとしたら、本当の親から与えられた唯一の品だったかもしれないのに。それでも、彼女はその条件を呑んだ。家族が欲しかったのよ、そうまでしても」
「……確かに、どうして名前を変える必要があったんだろう」
「理由はそのうちに知れてくるわよ。優しい義父、使用人……その誰もが、自分を通して別の人を見てる。別の少女を。本当の彼らのお嬢様である、『梢子』をよ」
 涼湖はそこで、一度眼を伏せた。一気に話すには、少し切なさがよぎったのかもしれない。
「プレゼントだって、青々とした梢のステンドグラス……たとえ色が変わって楓の木になったとしても、やっぱり梢子の影は付いて廻るわ」
「でも、でもでも、旦那さんは本当に楓子さんを……」
 舞琴は、必死に否定要素を探している。そんな彼女を、涼湖は少し意地悪そうに見た。
「愛していたって、本当にわかる?」
「……え……」
 舞琴は眼を見開いて、親友を凝視した。
「これは、本当に曲解になってしまうけど……。省一さんが、石田家と昔から付き合いが深い家の人間だとしたら……幼少の頃の梢子を知っていたのかもしれないわ」
 廉太郎は、その言葉にはっとなる。確かに、その可能性は高い。
「幼馴染……みたいなものかな。良家のご子息なら、石田家とは家族ぐるみで付き合いがあったかもしれない。ひょっとしたら、婚約者だったかもしれないね」
「そんな……」
 舞琴は、ぴしゃりと頬を殴られたような顔をしていた。廉太郎は、行き過ぎた想像を口にしてしまったことを、少し後悔した。
「舞琴……そんな顔をしないで。あくまで可能性の話だよ。だけど、そうなると……楓子よりも省一さんは、石田家との繋がりが古いことになるな」
「そうね。結婚しても、楓子は部外者で在り続るわ。完全に楓子と同じ立場でいるのは、新たに生まれてきた息子の『省吾』だけよ」
「……楓子さんが心の拠り所にしていた理由……それなら、分かる気がする……」
 舞琴は辛そうに俯いた。
「それだけじゃないわ。その数年後には、石田家の本当の直系である、眞子がやってきてしまう」
「眞子ちゃん……」
「いよいよ、彼女は部外者になっていくわね。もう、梢子の身代わりは必要ないんだもの。本当の忘れ形見の出現によってね」
「そんなこと、あの家族は誰も思ったりしないよ」
 舞琴は強く頭を振った。自分自身の疑念を振り払おうとしているように見えた。本当は、舞琴も、同じように考えたに違いない。だけど、垣間見た石田家の人々の優しさが脳裏にあるのだろう。
「眞子ちゃんだって、良い子だったじゃない……」
「そんなことは関係ないのよ、楓子がそう感じてしまっているのだから。そして、一度浮かんだ家族への不信感は、簡単には拭えなくなるでしょうね。本当に血が繋がってるわけじゃないのだから」
「部外者、か……」
 なるほど、と廉太郎は納得した。血の繋がりなど、どうということはないと思っているのは、新しい世代の人間だけかもしれない。日本はほんの少し前まで、家督は長男しか継げなかったのだから。
「可愛がられる眞子、どんどん美しく成長し、梢子に似ていく眞子……どんな思いで、楓子は眞子を見ていたのかしらね。所詮、自分は身代わりにすぎないことを痛感して、どんなに苦しんだでしょうね。生まれた息子でさえ、眞子の魅力に引き込まれてしまう。自分より梢子を愛しているかもしれない夫、あと十年もしたら、夫の気持ちは自分から離れて眞子に向いてしまうかもしれない」
「そんな、あり得ないよー、姪と結婚だなんて!」
 舞琴は、再び頬を紅く染めて、一笑した。
「あら、どうして? 血は繋がっていないわ。それに省一の年齢は、写真からしても二十歳前後だったわよ。あそこから単純に二年くらい経った頃に眞子が来たとして、そこから十数年……まだ三十代くらいなのよ。十分に考えられる年の差じゃないかしら」
「……うわ、なんかそんなの嫌だな……昼ドラの世界じゃない」
 舞琴はぶるっと身震いをした。
「あり得る話だと思うわよ。昼ドラじゃないけど、ドロドロよ。当時の上流社会なんて」
 涼湖は顔にかかる長い艶やかな髪を、さっと掻きあげた。
あまりに断罪するように言い放つ涼湖に、廉太郎は苦笑し、フォローを加えることにする。
「まあ、その発言は多分に偏見を含んでいるけどね……、あり得ないことはない。疑心暗鬼に陥りつつある楓子には、十分に可能性がある話じゃないかな」
 さすがは女性らしい推理の仕方だ。女性の気持ちは女性に聞け、ということだろう。そんな風に、胸の奥の、ドロリとした黒い部分にまで、踏み込んで考えることは出来なかった。……いや、したくないだけなのかもしれない。所詮、男は……いや、自分は臆病者なのだろう。
「だけど、眞子ちゃんのせいじゃないじゃない……」
 舞琴は、搾り出すように呟いた。精一杯の抵抗のように見えた。
 怪力で男勝りで、女性の陰の部分なんて予想もしたことがないだろう。だけど、それでもやはり、女なのだ。本能で、敏感に楓子の予感を同じように感じ取っていた。両手でぎゅっと己が腕を抱きしめて、押し寄せる不安に耐えていた。
「眞子には罪は無い、そんなことは百も承知でしょう。だけど、もし彼女が来なければ、ここまで苦しむことは無かった。梢子の影が付いて廻るだけでよかった。実際に生きている人間が邪魔になるなんて、苦しみは倍以上に膨れ上がるわ。眞子が可愛ければ可愛いほど、苦しみは募る。憎いと思えたら、よほど良いでしょうね。父親も、家族も、夫も、そして眞子も……芯から憎いわけじゃないから辛い。辛くて、自分が嫌になってたまらない。静かに、けれど少しずつ精神は病んでいく……いつ臨界点を迎えてもおかしくないわ。いいえ……いっそ狂えてしまった方が楽だと思ったかもしれない」
「……」
 舞琴はついに、黙り込んでしまった。
 その後の石田家に起こったことを、全員知っている。
 やがて、楓子には臨界点がきてしまうのだ。図らずも、自分の感情とは全く関係なく……ある日、突然に。
 眞子に愛する息子を奪われてしまった、そのときに。

「……さて、これで私の推理は終わりよ。何も証明してくれるものはないけどね」
涼湖は空気を切り替えるように、颯爽とイスから立ち上がった。
「証拠なんか要らない、そんな推理もあるよ」
廉太郎自身、あの事件の時に同じような推理をした。もっとも、こんな風に心裡を推理するものではなかったが。
「悲しすぎるね……」
 舞琴も、涼湖の推理に異論は無いようだった。ただ、ショックは大きく、まだ立ち直っていなかった。
「そうね……。でも、1つだけ救いがあるとすれば……、省一さんは、楓子自身の手で、殺めることができたってことかもしれないわね」
「……どうして?」
 舞琴は、涼湖の言葉に眉根を寄せる。
「愛してる人を永遠に、自分の手で、自分のものにしたのよ、彼女は」
 涼湖の言葉に、舞琴は眼を見開き、息を詰めた。一心に、その言葉の意味を咀嚼しているようだった。
 廉太郎は、なぜ涼湖がこの推理を話すことを躊躇ったのかを、初めて理解する。きっと舞琴には、そんな独占欲は理解できないだろう。
「わからないよ……やっぱり」
 案の定、舞琴は複雑な顔をして、首を振った。
「そんなの、私だって理解できないわよ。でも、世の中に、そういう事件を起こす人がいるのは確かよ。愛する人が自分以外の誰かに心を奪われるよりは、って人がね。だから、そんな風に考えただけよ」
 涼湖は対照的に、しれっとして答えた。舞琴と違って割り切って考えているのだろう。その点は、涼湖は廉太郎に近い感性を持っている。
「だから、愛した夫だけは、自分で落とし前をつけた。そういう意味では、唯一彼女にとっての救いだったかもしれないって言ったの。……アンタがあんまり凹むんだもの。でも、逆効果だったかしらね」
 涼湖は困ったように溜息をついた。
 なんだかんだ言って、彼女も親友に甘い。
「よく判らないけど……でも、もしも、それが本当に楓子さんにとって救いだって言うんなら、そうなんだと思う……」
 舞琴は、独り言のように小さな声で答え、そして言葉を続けた。
「でも、愛してるからこそ、旦那さんと話し合って欲しかったな……。お互いに思ってる事、全部話して、それでもダメなら仕方ないって、そんな風に考えられたら、違う結果になったんじゃないのかな」
「そうね、それが理想だし、そうするべきだったのよね。でも、今と違って、親のいない身分の女が、当時の世間でどう扱われていたのか、想像に難くないわ。もしも話し合った末に拗れて、家を追い出されてしまったら、息子と離れ離れにされてしまったかもしれない。言うのは簡単だけど、実際に実行するのは……難しかったんじゃないかしら」
廉太郎にも、涼湖の言わんとすることが理解できた。
 一度手に入れてしまったものを手放すのは、とても難しいことだろう。
 それが、欲しくて欲しくて、心から切望していたものなら、なおさら。
 楓子には、家族を手放す勇気など、持てなかったのではないだろうか。
「うん……やっと、リョウの言ってることがわかった気がするよ。彼女のしたことは、けして許されることじゃないけど。でも、彼女の気持ちも少しだけ考えることが出来る、そんな気がする」
 舞琴も、今度は少しだけ納得したようだった。彼女の瞳は、落ち着いた、静かな光を湛えている。
「……そうだね」
 廉太郎は、その表情を見られたことで安堵し、微笑んだ。

「しかし、おリョウさんの想像力には脱帽するよ。さすがは小説家志望というだけあるな」
 本心から賞賛したのだが、涼湖は皮肉と取ったらしい。いつもは涼しげに澄ましている顔を朱に染め、少しふくれ面をして、廉太郎をにらんだ。
「想像力こそが、小説家の武器だもの。生きていくのに全く必要ない想像力こそが、小説家の命なのよ。私から想像力を取ったら何も残らないわ」
「リョウ、何もそこまで言わなくても」
 舞琴は呆れてなだめる。
「……って、リョウ、小説家志望だったの?」
 遅れて、ツッコミが入った。涼湖が、しまった、という表情をする。
「え、知らなかったのかい、マコト」
廉太郎は意外な反応に驚く。親友である舞琴は当然知っていると思っていた。
「全然! だってリョウ、一度もそんな話、しなかったじゃない!」
「そりゃ話さなかったもの。もう、レンさんったらバラさないでよ。油断したわ」
 涼湖はそそくさと逃げるように帰り始める
「ちょっとリョウ、なんであたしには内緒でレンさんには話してんの? 酷い、親友だと思ってたのに〜!」
「あーもう、うるさいうるさい、帰るわよ、ホラ!」
「あ、こら、逃げるなっ!」

 騒々しく教室を出て行く二人を見送って、廉太郎は、ふふと笑った。
 いつもの二人の調子に戻ったようだ。
 結局自分は、何もできずに見守るだけだ。彼女達が自分で立ち直るのを、ただ見守ることしかできない。自分の居る意味は、どこにあるのだろう。
不思議なことに、それでも自分は、ここに居たいと思っている。
「マコトと同じ悩み、だな……」
 ただ見ているしかないのに、見なくてはいけない。
 見ているのに、見ている意味が無い、そんな風に思えるときがある。
 それは、あの事件のことだけに限らず、この世界のどこにでもある悩みなのかもしれない。全ての事象に意味を持たせること自体、無意味なことなのかもしれない。……そういえば、観測することによって、全ての事象が存在するという説を唱えた学者がいたな。
 眼を閉じても閉じなくても、月はそこにあり続けるというのに。
 廉太郎は、ふっと目を伏せた。口元に自嘲の笑みをかすかに浮かべて。

「何してんのレンさん! 帰るよー!」
 
 出て行ったはずの舞琴が戻ってきて、教室の入り口から、ひょっこりと顔を覗かせた。
 廉太郎は少し驚いて眼を開き、そしていつもの笑みを浮かべる。
「ああ、ごめん。今行くよ」
 自分はそこに、居るだけでいい。
 美少女二人の一番近い場所にいるのだから、なんとも男冥利に尽きるではないか。
 そう廉太郎は独りごちて、鞄を手に席を立った。
 窓の外は、薄闇色になっていた。
 山の楓も、もう紫色に霞んで見えない。
 夜空には、塵を巻きあげる風が吹き、不安げに瞬く星と、寄り添うように冷たく輝く三日月がある。
 そこには理由なんかなく、意味なんかなく、ただ、そこにあり続ける。
 それが真実だと、誰かに叫べたらいいのにと、廉太郎は思った。

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